「きれいな顔してるだろ。」




先日地元に帰ったとき、昔付き合っていた彼と誕生日に行ったお店がなくなっていたことを知った。
なんとなく、寂しい気持ちになった。

彼が死んでからもう4年以上経つ。
別に彼のことを忘れていたわけではないが、ふと思い出したのでここに吐き出す。

私はかなり痛い黒歴史を抱えているが、半分笑いながらスルーしてほしい。


彼とは中学2年の時に付き合ってから、付き合ったり別れたりを繰り返していた。
お互い相手の気持ちを試すためにわざと他の人に気のあるフリをしていたんだと思う。
どちらかが別れを切り出せば嫌だというわけでもなく了承し、お互いすぐに別の相手と付き合う。そしてお互いすぐに上手くいかなくなり、どちらともなくよりを戻す。不思議な関係だった。

高校1年の秋頃、初めて彼と喧嘩をした。今までお互い嫌われたくなかったのか、めんどくさいと思われたくなかったのか、意見がぶつかることはなかった。きっといつもどちらかが合わせていたんだと思う。

その日は初めて私が意見をぶつけた。向こうから怒ったような返事がきて、内心ドキドキしていた。私が「もういい、別れる」と言うと、彼はあっさり謝ってきた。でも私も引くに引けず、その時そのメールだけで別れてしまい、メールも写真も全部消した。

私はこのとき嬉しかった。彼と初めて本音で言い合えたと思った。そして今まで別れを切り出すとお互いあっさり了解だったのに、初めて嫌だと言った。どうせまたすぐよりを戻すだろう。そしたらきっと本音の見えなかった付き合いも何か変わる。心から通じ合えるようになると思った。

その1週間後ぐらいだった。
授業が終わり、教室で友達と喋っていると、中学からの彼と私の友達が入ってきて、手を震わせながら、彼が死んだ、と私に伝えた。
一瞬何を言っているのかわからなかった。言葉の意味を理解した瞬間手が震えだして、携帯を開くと、彼の親友から何件も着信が入っていた。震える手で電話をかけると、電話口から鼻水をすする音がした。本当なの?とだけ聞くと、涙をこらえながら、死んだ、と言った。

その後、帰り道母に電話をかけ、泣きながら歩いた。夜になり母とお通夜に行き、彼の亡骸を見た。青白い綺麗な顔で、本当に眠っているように見えた。たちの悪いドッキリじゃないかと思った。でも触ってみると冷たくて、生きている時とは違う皮膚の感触で、私が泣き崩れると、彼のお母さんが側に来て、私の背中をさすり泣きながら、彼のことを忘れないでね、と言った。

次の日はテストだった。私は真面目なほうではないし、少しでも熱があると大喜びで学校を休むのに、なぜかその日は母が行かなくてもいいよ、と言うのも聞かずに学校へ行った。

校内放送で呼び出され、事情を知る学校側がカウンセリングを手配したようだった。いろいろと話を聞かれたが、初めて会うおばさんに心を開いて話すわけもなく、その場は適当に大人を安心させる言葉を並べた。辛い、苦しいとは言わなかった。突然のことで驚いていてまだ受け入れられてはいないが、別に後を追うとか、自分も死にたいとかは思ってないです、と。

その時に1度だけ会ったそのカウンセリングのおばさんは後に何度か校内で見たが、大嫌いになった。私が辛いのを我慢して大人が欲しい言葉を与えてる時にその人が笑顔を見せた、というなんとも狂気殺人犯みたいな理由だった。
このとき誰にでもいいから見えを張らず、強がらずにわんわん泣いて気持ちを打ち明けることができれば、長い間ひとりで抱えて苦しむことはなかったのかな、と今になって思う。

それからは学校で何をしたのか、家で何をして過ごしていたのかはまったく覚えていない。ただ私が考えていたことだけが思い出せる。この頃から私は考えすぎる癖というか、ひとりで思考の世界に浸ることが増えたと思う。
 
夜眠れないことが続き、夜中の3時頃になるとたまに金縛りに遭うようになった。私は幽霊でも何でもいいから彼にもう1度会いたいと思って泣いていた。
アインシュタイン相対性理論の本を読んで、早くタイムマシンに乗って別れたあの日に戻ってやり直したいと思った。

そして何度か、彼の夢を見た。とてもリアルな夢だった。
現実の続きのように始まり、彼の親友から電話がかかってきて、彼が自殺未遂をして病院にいる、と言われる。急いで病院に駆けつけると、呼吸器をした彼と、彼の家族が病室にいて、私は彼の元に駆け寄って泣き崩れた。心底生きててよかったと思った。
しかし目が覚めたあと、夢だとわかって、現実の残酷さを余計に突きつけられた気がした。この夢は私の願望なのか、同じような夢を何度も見て、起きるたびに現実が辛くてしょうがなかった。

そしてその年の大晦日、夜中に彼と同じところにピアスを開けた。彼と私は当時ヴィジュアル系バンドにハマっていて、耳はもちろん舌や口元や指にまでピアスが開いていた。私にとって死んだ彼と生前にお揃いで開けたピアスは彼と私を繋いでくれていると思った。それから彼のことを忘れないように、義務感に苛まれるように、大学に入るまでずっとお揃いのピアスをつけていた。

それからは普通に生活できた。周りの人は心配してくれたが、私は自分の気持ちを話すことはしなかった。泣いているのを見られるのが嫌だった。何ヶ月経っても、何年経っても彼のことを思い出すと泣いてしまうし、友達に重い話をして、困った顔で私のことを扱いあぐねてる感じを読み取ってしまうのも嫌だった。
でも私はずっと誰かに聞いてほしかったんだろうと思う。それから何年も、夜ひとりになると彼のことを思い出して泣いていた。

時は流れて大学2年、ひょんなことから連絡を取った彼の弟に、何年も溜めていた誰かに聞いてほしかった思いをぶちまけた。自分でも引くぐらい泣いて、スッキリした。ようやく私の中で、彼がいないことが日常に溶け込んでくれたと思った。


彼が死んでから、私の中で大きく変わったことがある。人を傷つけることにも自分が傷つくことにも敏感になって、臆病になってしまったこと。
でもその分、大切な人を大切にできるようになったと思う。
特に恋愛では、あんなにとっかえひっかえしていた自分が信じられないほどヘビーで一途な自分に驚いている。私が今の彼氏をここまで大切に思って向き合えるのも、彼のおかげだと思っている。

彼の死で私が変わったから、私に関わる家族や友人を、大切に思えるようになった。そして私に関わる人が、私が彼が死んだ時に感じだような辛い思いをしないように、自分のことも大切に出来るようになった。過剰な気もするが。
ひとりで考え込む癖がついたために、友人関係では付き合いが悪くなってしまった感じもするが、それは優しい人達ばかりで甘えているんだと思う。ごめんなさい。ありがとう。

今でも彼のことを思い出すと涙が出る。地元に帰れば彼と歩いた道や場所が嫌でも目に入る。しかし人間は都合の良い生き物で、年月とともに思い出を美化していく。
きっと彼が死んでいなければ、私はここまで彼を思うことはなかっただろう。
そんな都合の良い自分に嫌気がさすこともあったが、私は今彼に感謝しているし、好きとか恋とか愛とかいう言葉では表せない感情を抱いている。

彼に片思いをしていたころ、道路に立っている標識に、ひらがなで書かれた彼の名前を見つけるのが好きだった。それは今でも変わらない。

彼が死んだ時はお通夜しか行かずにお葬式も火葬も参加していないので、私の記憶の中には、彼の眠っているような綺麗な姿が映っている。

「きれいな顔してるだろ。ウソみたいだろ。死んでるんだぜ。それで…。」

私が最後に見た彼の姿を思い出すと、タッチのこのセリフがふっと浮かぶ。こういうのを本当の名シーンって言うんだろうなと思った。



人が死ぬ話ばかりしている気がするが、こんなところでしか吐き出せないので許してほしい。

おわり


灰になった③

  


翌日20日、この日は朝から葬式、火葬、納骨と1日かけて忙しい日だった。朝9時に葬儀屋が家に来て、最期のお別れの儀式をすると言った。葬儀屋が進行する通りに死に装束を纏わせたり、棺桶にお土産、花を入れたりしたが、祖父の遺体を目の前に、最期のお別れを言ってあげて下さい、と言われると、嗚咽が止まらないほど泣いてしまい、声に出して別れを言うことはできなかった。喪主は祖母だが、高齢なため葬儀や祖父の介護などほぼ母が取り仕切り、気丈にふるまっていた母が、祖父の手をとって嗚咽を漏らし泣いている姿を見て、本当にこれで祖父に触れるのは最後なんだと苦しかった。


儀式を終え、祖父と祖母、母を乗せた車は葬式の会場に向かう。私は険悪だと思っていた兄と2人で、久々に普通に会話を交わしながら、穏やかな空気で会場に向かった。

葬式にはたくさんの人が来て、予定通り進められた。喪主の挨拶は兄が勤め、涙をこらえながらはっきりしっかりと締めてくれた。その後火葬場へ向かった。 

 
祖父を火葬した時、私はとても複雑な気持ちだった。

火葬場は広くて綺麗でハイテクな感じだった。焼香をし、火葬する厚い扉に入れられる祖父を見ているのはとても辛かった。簡単には開きそうにない扉が重たい音を立てて閉まる瞬間に、祖父と本当の別れが訪れた気がした。そんな熱い火でじいちゃんを焼くの?やめて焼かないでと心の中で何度も思った。

火葬のスイッチを押すのは喪主である祖母の役目だった。しかし、スイッチを押して下さいと言われた祖母は泣きながら、そんなことできない、と言った。結局、母と一緒に震える手でスイッチを押し、少しすると厚い扉の奥からガコンガコンという音がした。最近の火葬場はハイテクで、煙やにおいがしたり、大きな音が出るようなこともなく、控え室で軽食をとりながら終わるのを待った。

火葬が終わると今度は骨を拾い骨壷へ移す。2時間前まで眠ったような綺麗な顔をしていた祖父は、かすかに人の形をしているぼろぼろの白い灰になっていた。灰になった祖父を箸でひとつずつ拾った。時々目に映る遺影の祖父を見て、灰になった祖父の骨を拾っていると、複雑な気持ちでいっぱいになった。これはじいちゃんなの?こんなのはただの白い灰だ、と思った。ぼーっと骨を拾いながら、うちの家族はみんな箸の持ち方が綺麗だな、箸の持ち方が間違ってる人は大切な家族の骨を拾う時に恥ずかしいと思うのかな、とか考えながら納骨を終えた。


その後は親族で墓に向かい、建て替えたばかりの墓を開けて、その中に祖父の骨壷を入れた。




そして翌日は昼まで寝て、午後から母とお寺で四十九日までの打ち合わせをした。

そして金曜に沖縄へ帰り、GWにまた戻る。

出来ればこのまましばらく家族と一緒にこの家にいたい。ゆっくり遺品の整理をしながらじいちゃんの話をしたい。でもみんな忙しい日常にのまれて、時々忘れながら、時々思い出しながら、ゆっくり受け入れていくものなのかな。悲しみ続けるわけにもいかない。私には現実と日常が待っている。



小学校から帰ると、自分で焼いたパンを食べさせてくれたり、私の好きなお菓子をいつも戸棚に入れててくれたり、一眼レフで1番良い位置で運動会や発表会の写真を撮ってくれたり、笑ってる優しい記憶しか思い出せない。

きっと私にとってはその姿が私の祖父であって、骨壷に入った白い灰はもう祖父ではない。祖父は灰になった。今は記憶の中に生きている。


灰になった②




19日、祖父が亡くなった翌日の朝、学校へ向かい、先生に無理を言って水曜日にするはずだった履修登録の手続きをしてもらった。そして昼の飛行機で実家に帰った。


母はお通夜の準備で忙しく、母の職場の人が空港まで迎えに来てくれた。途中で母に買い物を頼まれたが、職場のおばちゃんが、私達が行くからあんたは早くじーちゃんに会ってあげなさい、と言ってくれた。その時はまだ実感が湧いてなかったので、そんなに急いでないのにな、とどこか他人事のように思っていた。

家に帰るとめったに会わない親戚たちが忙しそうにしている。寒いぐらいにクーラーで冷えた部屋に棺桶が置かれていて、その中に、いつも出かける時に被っていた帽子を被った祖父が、青白い顔で寝ていた。棺桶の隣に座って近づくと、体温を感じない体に、祖父は寝ているのではないと一瞬で理解して、涙が溢れ出た。私の後ろでは親戚が慌ただしく葬式の準備、葬儀屋との段取りを確認していて、しばらく祖父の隣に座っていたが、悲しんでいるよりも私も何かしなくてはと気持ちが切り替わり、涙はあっさり止まった。

喪服を持っていなかったので、母からのお使いと一緒に喪服を買いに行った。ひとりで車を運転していると案外冷静で、忙しく動いていた親戚と同じように、葬式の段取りや必要なものの買い出し、やることが次々と頭の中を巡り、その日祖父の遺体と対面してから、悲しんだ時間は僅かだった。

買い物から帰り、喪服に着替えると私は遺族としてお通夜に来る親戚や客にお茶を出したり、あっという間に時間が過ぎた。最後の客が帰る頃には夜もふけていた。たくさんの人が来て、私たちの知らなかった祖父の友人から思い出話を聞き、悲しむ暇はなかったし、祖父のためにたくさんの人が来てくれて嬉しかった。お風呂に入り、一息つくと急にお腹が空いてきて、夜10時ごろから祖父の棺桶の隣で酒盛りが始まった。最後には家に帰れて、孫にも会えてよかったね、と話しながら、遺体を横にして穏やかで楽しい時間を過ごせたのは、今思うと不思議な感じだった。その日は棺桶の隣に布団をひいて、祖母、母、兄と5人で寝た。




灰になった①




先週18日に祖父が亡くなり、急遽19日に実家に帰ってきた。父方の祖父は私が生まれる前に亡くなっていて、父方の祖母、母方の祖父母は健在。初めて近しい身内の葬儀に参加することになった。

記録と、気持ちの整理のために文章にして残したいと思う。




今年の1月に成人式をした時には祖父は元気で、通院しているわけでもなくいつも通りだった。2月の後半から体調を崩して、3月に入ってから高熱で倒れて入院。骨髄性の白血病と診断されて、余命は持って2年、容態が急変すればいつでも、覚悟してくださいと医者から宣告を受けた。

3月中旬になって実家に帰り、祖父に余命を伝えるのはやめたほうがいいんじゃないか、と話し合いをした。ちらっと医者が祖父に余命の話をしたあと、祖父は高いウイスキーやブランデーを買ったり預金を全部引き出してこいと言ったり、どうせ死ぬんだからと自暴自棄になったので、はっきり余命宣告はせず、医者にも言わないでとお願いした。

その時はまだはっきり喋っていたし、自分で歩いていたし、少し入院すればあと1年ぐらいは持つだろうと思っていた。
3月後半に退院して、祖父の好きなお寿司とケンタッキーとビールで退院祝いをして、入院中に食べたい食べたいと言っていたものを全部食べて、祖父も嬉しそうだった。

しかし退院後、だんだん痴呆が酷くなり、ワガママも酷くなる。停電でショートしたパソコンを中古で買い換えたのが気に入らないと、すぐに最新のパソコンを買ってきて、Windows8の使い方がわからず電気屋の兄ちゃんにキレる。私は沖縄に帰っていて話を聞いただけだったが、いつも通りのじーちゃんだな、ぐらいに思っていた。


4月に入って1週間ほどで高熱で倒れて再入院。この頃には歩けなくなり車椅子で移動。地元の病院は終末期医療には対応してなくて、家族が泊まり込みで看病していた。夜中に何回もトイレに起こされ母は眠れない日が続いていた。祖父は早く家に帰りたいと言うので在宅看護の申請、介護認定の手続き、酸素の設置を進めていた。

そして4月16日、兄が仕事終わりに母と交代で病院に行っていた。祖父の様子を見た兄から早く会いに来た方がいいと言われ、大学の授業が始まっていたが、22日金曜日に帰ることにした。
しかしその翌朝、母からやっぱり今日来れないかと連絡があり、その日の昼に祖父に会いに病院へ。
祖父を見た時、泣きそうになった。もうはっきり喋れず、言葉を聞き取るのも難しい状態で、1人で寝返りをうつこともできない。確実に死に近づいている祖父を見るのが辛かった。
私が来た時には高熱で辛そうで息も荒かったが、何回か座薬をすると帰る頃にはいくらか楽になったようだった。夕方の飛行機で日帰りの予定だったので、祖父の手を握り、また来るねと言って空港へ向かった。

 
4月18日、その日退院予定だったがまた高熱。しかし祖父はずっと家に帰りたいと言っていたので、母もそれを叶えてあげたいと退院。
無事家に帰ったのもつかの間、3時間ほど経つとまた熱にうなされ、本人に病院に行くかと聞くと頷いたので救急車で搬送。意識がなくなり、今夜か明日には、と母から連絡を受けて次の日の昼の飛行機のチケットを取った。
その1時間後に息を引き取ったと連絡を受けた。